一口に宗教といっても

アインシュタインの友人への私信の話(http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2008051400083)の関連で、宗教の話が多少盛り上がっている感じがあります。
問題の私信自体は、後に続く文章から、アインシュタインの宗教的立場を表明したものというよりも、友人への反論を述べる際、論の組立として冒頭で強く否定して見せた感が強く見えたのですが、まあ、英語の抄訳を私の英語力で読んだものなので詳しくは誰かの研究が出るまで判断は保留です。


さて、今回項を起こしたのは、議論を見ていて「そういえば『宗教』って言葉が示すものの差異に対する理解って、各所でよく触れられているにも関わらず、そんなに浸透していないみたいだなぁ」と漠然と感じ、ちょっとその事を書いておこうかなぁ、と思ったからです。
ネタ記事に挟まれて真面目な内容ですが、私は人としての軸がデュアルショック並にぶれているので、こういう事もあります。というか、これが私の日常ですw 生暖かく見てやって下さい。


日本人の歴史における『宗教』と西欧の歴史における『宗教』には差異があります。まあ、具体的にはキリスト教イスラム教なのですが、これらは神学により『倫理学』を完全に取り込んでしまっていたのです。
海外に行って「あなたは何を信仰してますか?」という問いに、「自分は無信教である」と答えると奇異な目で見られるから仏教、神道を信仰していると言うか、あるいは武士道だと言った方がいいなどと言われます。前二つは明らかに宗教なのに後者は違いますね。それなのにその答えで平気なのは、「奇異」に見られるのが、発せられたのは宗教の質問であるにも関わらず、質問者にとっては倫理の問題でもあるからです。武士道を信奉しているのであれば、倫理的な問題は起さないだろう、と判断されるのですね。一方で、神道の倫理基準だと西欧の基準と色々とぶつかりそうなものですが、逆にその可能性は考えられず、宗教を信仰している=我々と同等の倫理基準を持っている、と錯覚して問題無しと判断してしまったりもするのです。


東洋では『宗教』とは別に『倫理学』が発達してきました。もちろん『宗教』の中でもそれなりに体系化してはいたのですが、儒学を筆頭とした様々な倫理哲学の中での体系化の方がより発達していたと言えます。結果、『宗教』と『倫理』の強い結合は起こらず、また、『宗教』を放棄しても別に『倫理』を補える構造を持っています。
一方の西洋では『宗教』の否定は『倫理』の否定と紙一重です。非常にデリケートな問題で、彼らが著名人の宗教否定の言動に対して敏感に反応するのには、そういう背景があるわけです。